「東京下町の情緒100景」が完結・想いをつづる
                                                                      

  私は広島県の瀬戸内の島で生まれ育った。 東京の私立大に入った。 結婚後は市川の社宅に住んでいた。 長女が生後4か月のときだった。 腹部を2度も手術する、 危機一髪に陥った。 
  妻からは、 『あの子(長女)がもし死んでいたら、 真夜中、 酔っ払って帰宅し、 病院に連れて行ってくれなかった、 そんなあなたとは離婚するつもりだった』といわれた。 (エッセイで書いた)
  義父が「医者もろくにいないところに、 住むんじゃない」といった。 そんな経緯から、 東京下町の立石に引越ししてきた。 当時の商店街はずいぶん繁栄していた。 
 

  私は20代後半に、 過労と不摂生から「腎臓結核」という思わぬ病気になった。 次女が生まれた翌日に、 長期入院となった。 退院後、 次女と顔を会わせたとき、 人見知りで、 泣かれた。 
  手術でなく、 薬の治療を選択したので、 退院後も闘病生活が長くつづいた。 朝夕には散歩に出る、 中川の桜並木が見事だった。 収入がないし、 幼子が2人もいるし、 生活苦の悶々とした日々のなかで、 桜の樹木が心を休めてくれた。 
  一方で、 護岸工事で、 次々に桜が伐採されていく。 それが毎日の光景だった。 「淋しいな。 これは本当に人間の英知なのだろうか」、 という疑問がわいた。 
 伐採された桜は二度ともどることはなかった。 
  腎臓結核の闘病生活は、 私を執筆という世界に導いてくれた。 復職してからも、 夜とか、 早朝とかを利用して、 作品を書き続けてきた。 著名な小説家を指導者と仰ぐことができた。 書くことがライフスタイルとなった。
 

  中川から消えた桜への想いは、 いつか、 どこかで表現してみたかった。 
『東京下町の情緒100景』をスタートしたころ、 最後はあの桜を書き残そう、 と思った。 他方で、 100本まで作品を書き続けられるのかな、 という不安はあった。 07年春には「桜」を撮影しておいた。 

  今年に入り、 「099正月」から、 桜の季節まで、 間がありすぎた。 『穂高健一ワールド』、 『穂高健一の世界』の読者からは、 100はいつなの、 とよく訊かれた。 曖昧に応えていた。 
  このところ桜が咲きはじめた。 中川の桜の伐採について、 やっと執筆できた。
 

  『中川の桜は下町の象徴だった。 それを懐かしんでも、 とりもどせない。 わたしたちは半世紀、 一世紀後にむけて何が残せるのだろうか。 
 東京下町の情緒100景が、 100年後には何コマ残っているのだろうか』
 という文面で締めくくれた。 それは長年もち続けた、 私の想いだった。
 

  100までこれたのは、 『穂高健一ワールド』で、 テクニカルなITサポートをしてくれた肥田野正輝さん、 『穂高健一の世界』で、 リライトしてくれた蒲池潤さん、 お二人の支援があったからである。 感謝申し上げたい。 
  こんどは『TOKYO美人と、 東京100ストーリー』を展開していく。 美人を探し求め、 撮影し、 執筆していく。 短編、 中編だから、 途轍もない挑戦だ。 
  厳しい登山のさなか、 疲労困憊に陥ると、 『千里の道も一歩から』といいながら、 重い登山靴を一歩ずつ踏み出すのが常だ。 その気持ちで、 一作ずつ進んでいく。
 

※写真は、 妻・倭香(しずか)が咲かせた花。 
習作時代は、 家事、 育児も手伝わず、 ひたすら1円もならない原稿を書く続けた。 妻の理解がなければ、 物書きになっていなかっただろう。
 

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