【091】 母   性

  中川は下町・葛飾を縦断する。 この河川は古くから氾濫の被害をくり返す、 住民泣かせだった。 天然の災害は容赦ない。 あらゆる幸せを不幸に変えてしまう。 
  治水工事で、 放水路ができた。 川が二股に分かれる、 三角形の空地ができた。 公園というには狭すぎる。 空地というには整備されている。 そこに『母性』の像が立つ。 
  この地になぜ『母性』の像があるのか? 小説家の頭脳にはあるストーリー(フィクション)がひらめいた。 

  恋する女性は美しい。 愛する男性と結婚し、 歓喜の頂点。 子どもを身ごもった女性は、 胎動から母性が芽生える。 出産。 わが子に母乳を与え、 ひたすら愛情をそそぐ。 他方で、 母親はあらゆる敵から、 わが子を守る。
 

 ある日、 大雨が続いた。 ここ数日は降り止まなかった。 
  河岸の一軒家では、 20代の母親が赤子を抱え、 不安な目で川の増水を眺めていた。 夫は住民たちと堤防の補強で土嚢(どのう)を積み上げている。 夜を徹した作業だった。 
  三夜が明けても、 雨はつづく。 川の水位はなおも上がりつづけている。 中川の濁流が土手を荒々しく削りはじめた。 突如として、 母子のいる河岸の家の地盤が割れた。 一軒家は音を立てて傾いた。 母親は恐怖で玄関戸を開け、 戸外に逃げた。 一瞬遅く、 彼女の足もとの土手が崩れ落ちた。
 

  「あなた、 助けて」
 彼女は悲鳴とともに、 川に転落した。 渦巻く濁流にさらわれた。 母子の姿はたちまち消えた。 
 遠巻きにみていた住民は手の施しようがなかった。 
  翌日、 母親は下流で発見された。 死んだ母親の両腕には、 赤子が抱きしめられていた。 死しても、 わが子への愛情は消えていなかったのだ。 
  彼女の母性は永遠へと昇華した。 いまや天使となったわが子を抱きしめる。 
 
  夫は悲しみの涙で、 きょうも『母性』の像を見つめている。
 

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